2013年6月30日日曜日

NSA、スノーデン問題の示唆

誰が言ったか知りませんが、インテリジェンスの世界ではしばしば「必要な情報の8割はオープンソース(公知情報)から得られる」と言われています。公知情報とは、新聞、雑誌等の出版物、官報、登記簿といった公的情報を指します。こうした公知情報の収集・分析をOSINT(Open Source Intelligence、オシント)といい、政府機関の中には、毎日ひたすら対象国、地域、組織、人物に関する公知情報を収集、分析し、そこからインテリジェンスを生み出す部署があります。

アメリカ・ペンタゴンによってEメールが開発され、インターネット空間ができ、一般社会でも使われるようになって、サイバースペースも当然、OSINTの対象に含まれるようになりました。と同時に、電子メールやインターネットは通信技術を用いていることから、通信を傍受するSIGINT(Signal Intelligence、シギント)の対象にもなります。表題にあるNSAは米国、いや世界でも最たるSIGINT機関です。

前置きが長くなりました。スノーデン問題は、インターネット空間でのやりとりも情報機関にはチェックされているということを指摘しています。FacebookにしろTwitter、LinkedInなどのSNSをはじめ、個人のブログも情報収集の対象に入っているのは否定できないでしょう。

個人レベルでも当てはまると思います。「Facebookで昔の彼、彼女を検索してみた」というのは、Facebookが日本で流行りだした頃、よく耳にしましたが、心当たりのある人は多いのではないでしょうか。そうした調査能力は、国家機関となれば個人など比べ物にならないほど強大になります。

例えば、ネットに自分の身の危険を感じるほどの誹謗中傷を書かれたとします。プロバイダやサイト運営者にその書き込み主の特定を“個人で”依頼したとしても、プライベートポリシーや表現の自由を盾に断られるのが関の山でしょう。しかし、告訴を受けた捜査機関が「脅迫の疑いがある」と判断して、裁判所の令状をとれたら、特定するための捜査は可能となります(現実にはなかなかないことだと思いますが)。

スノーデン氏が母国から追われるのを覚悟で英国の新聞ガーディアンに語ったことで、NSAのそうした情報活動が広く伝わるところとなりました。日本での報道では国家によるプライバシー侵害といったトーンで取り上げているのでしょうが、逆説的な言い方をすれば、これがインテリジェンス、諜報、カウンターインテリジェンス、防諜の現実です。

アメリカでは特に、9/11テロ後に米国愛国者法が成立し、FISA(Foreign Intelligence Surveillance Act、外国情報監視法)が強化されました。どう強化されたかというと、FISAではそれまで米国人に対する諜報・監視活動は認められていませんでしたが、”テロを起こす危険性が推認されれば、諜報・監視は認められる”と拡大解釈されるようになりました。

細かいことですが、その際、NSL(National Security Letter)という書類の提出が必要となります。米国司法省は毎年、発行したNSLの件数と概要を発表しています。肝なのは、米国内における防諜活動を認めるのは、FISA法廷という一般には非公開の裁判所ということです。日本にもいわゆる「通信傍受法」という法律があるのをご存知の方もいらっしゃると思います。

対象に関するインテリジェンス活動が一般に知られてしまえば、活動はほとんど無意味になります。そのために秘密法廷の存在が必要となってくる訳です。同様の制度は、フランスのMagistrateも当てはまるでしょう。近現代、北アフリカからの移民による治安悪化に頭を悩ませたフランスと、9/11テロで国のあり方が変容した米国に共通しているのは移民国家という現実です。

NSAに話を戻すと、「安全保障上の脅威」が推認されれば、自国民を含め“自由”であるはずのサイバー空間の情報にも広くアクセスでき、また、NSAはその能力を有しているというのが、スノーデン氏が知らしめたところです。

日本にとって、その示唆する意味は何でしょうか。インテリジェンス能力を強化するには、スノーデン問題で取り沙汰された、国家によるプライバシーの監視も甘受しなければならない場合があるという点ではないでしょうか。国家権力による監視を嫌ったり、アレルギーがあったことで、日本では長年、いわゆる“スパイ防止法”が制定されず、情報の世界ではスパイ天国と外国から揶揄される社会にあるのが今までの日本です。

インテリジェンス能力を高めるには、NSCや情報機関だけなく、FISAやMagistrateのような秘密法廷といった制度設計も視野に入れなければなりません。そうした制度は時に、プライバシーや国民の自由との間に利害の衝突を生じさせます。それを受け入れる土壌と覚悟が、今の日本社会にどれだけ“共有”されているか。スノーデン問題は、そう問いかけているように思います。

最後に、一冊の本を紹介させてもらいます。
「プロファイリング・ビジネス」日経BP社 ロバート・オハロー・ジュニア著
(原題: "NO PLACE TO HIDE" by Robert O'Harrow Jr.)

筆者はワシントンポストで国土安全保障を中心テーマとした調査報道で活躍されています。フルブライト留学時にお会いして、お話を伺いました。同書では、9/11後のアメリカで情報収集をビジネスとする企業・産業の現実と、それらを利用、活用する米国当局の現実を丹念に追った力作です。DCでお会いした時に聞いた一言が今でも耳に残っています。

「9/11テロ直後からしばらく、確かにアメリカのメディア、ジャーナリズムはブッシュ政権(当時)の政策を手放しで応援した。しかし、テロから6年が経ち、愛国者法を含め、テロとの戦い方についていろいろな問題が露見してきている。その揺り戻しはこれから必ず起こる」

2013年6月22日土曜日

日本版NSCについて

先日久しぶりに、東南アジア某国出身で、政府に近い人と話したのですが、「日本に情報機関呼べる組織がないのは信じられない。絶対に作るべきだ」と強調してました。ちなみに、その人の出身の東南アジアの某国とは、太平洋戦争中の一時、日本に進攻された国ですが、そんな過去の歴史があっても、日本の安全保障体制の在り方を疑問視していました。

本当に機能するNSCの設置や、強力な対外情報収集の体制作り、組織化なんて、日本では夢の夢なんでしょうか。下記リンクの記事を読むと悲観的にならざるを得ません。しかし、それでもやっぱり、何とかできないかと思うのです。安全保障体制強化に対する意欲が高い安倍政権のうちに、という意味で急ぐに越したことはないのですが、時間をかけて築いていく、組織だけじゃなくて、政府内、世論の支持・共感も醸成していくことも必要でしょう。

http://www.nikaidou.com/archives/37524

http://downing13.exblog.jp/20578238/

東京にいて、普段から情報や安全保障のことを考えて暮らしているからかもしれませんが、日本は脆弱に見えますし、外部から浸食されている、表現は悪いですが、”食われている”なと思います。政治にしろ、経済にしろ、社会にしろ。特に日本の場合、経済・企業の弱体化、あるいは二極化が進む一方ですから、狙われるリスクはこれからも高いと言えます。

「現象の背後にある要因は何か」「言動の意図は何か」そして「そこに隠れたリスクはないか、あるとしたら何か」を常に考えられるようにしなくてはならないでしょう。NSCにしろ情報機関にしろ、一国においてはそのための構成組織でしかありませんが、それがないのが今の日本です。


2013年6月18日火曜日

日本版NSCで思うこと

安倍総理の悲願ともいうべき「国家安全保障会議」(日本版NSC)創設の関連法案が衆議院に提出された。第一次、第二次と安倍政権成立からずっと議論されてきた法案であるので概要は省略して、些細かもしれないが、気付いた点を指摘しておきたい。

外交・安全保障に関する調整機能と情報収集の権限を認める法案であり、情報収集政策を強化することが目的ではなさそうであるから、結局、役所から事務次官等幹部を経て、官邸へという従来の情報の流れを多少変えるだけの法案と読める。国家安全保障局に数十人規模の職員を置くというが、このスタッフは結局、省庁間の調整、情報共有が主たる仕事になってしまうのではないか。

元内政官僚からは「関連省庁から出向者を集めて組織化したとしても、任期後の役人人生を考えれば、結局官邸より出身母体を見て働くのがオチだろう」とか、「寄せ集めでは内閣情報調査室と同じだ」との指摘があった。

この点は、少し視点がずれるかもしれないが、9/11テロ後の米国で、それまでインテリジェンス・マスターの地位にあったCIA長官の上位として、国家情報長官(National Director of Intelligence)というポストと専従スタッフを新設した事例が参考になるかもしれない。9/11テロを招いた原因は、CIA、FBI、NSAのそれぞれがつかんでいたテロの兆候を共有し、総合的に分析し、活用できなかったという反省に立ち、米国政府として把握した情報を総合的に判断しようという組織改革だ。NDIを設置して、情報の集約はどれほど効率的になり、大統領の意思決定に影響を及ぼしたのか検証する価値はあるだろう。

日本版NSA法案も、あくまでも官邸という内側の機能強化の議論である。しかし、収集・分析する情報量を増やさなければ、単に情報の流れを変えるだけで日本版NSAは終わってしまう。

周囲でも、本当に必要なのは情報収集能力の強化、キャパシティの拡大だという声は多い。日本版NSCの法案提出を報じた読売新聞は「日本には独立した対外情報収集期間がない」とし、菅官房長官のコメントを引用しながら「政府内では諜報員の育成や諜報組織設置の検討も始まっている」と報じている(2013年6月8日付朝刊2面)。

収集した情報を分析し、共有、検討の後、情報収集し直し、再び分析…というサイクルを強化することで、質の良いインテリジェンスを生み出せる可能性はある。だがその前提には、国内外で多くの情報を集めてくる能力が必要条件となる。

読売新聞記事には、政府は「『スパイ』をタブー視する世論も根強いとみて、慎重に検討する方針」とある。それでも、国外では人知れず、体を張って情報収集を続けている外事警察官、防衛駐在武官、外交官等が活躍しているであろうことは、麻生幾氏の著作で細かく描かれている。

例えば、各省庁、自衛隊、海上保安庁、JETRO等外郭団体、あるいは民間企業から、好奇心と冒険心に富み、外国での孤独な生活に耐えられる精神力を持った人間、特に若者を、密かに一本釣りして、情報収集を担ってもらうのはどうだろう。対象国の語学から歴史、文化、教養も徹底的に学んでもらう。リスクを冒す業務である分、報酬は特別な扱いとする。

最後に、NSCが設置されたとして、情報収集の現場との間に、NSC及び官邸の意向、つまり必要な情報の発注とフィードバックが可能となる仕組みも採り入れることを、日本版NSC法案は視野に入れているのか。インテリジェンス・サイクルが効果的に回る体制でなければ、向上させた情報収集力・分析力も、官邸の機能強化も、意味をなさなくなってしまう。

もしここまで実現したら…と思えるほど、日本版NSC法案は可能性を秘めているとも考えられる。もっとも全てが現実になったとして、私が手を挙げても採用してもらえるほどもう若くないかもしれないが。

2013年6月16日日曜日

再開

先日、アメリカ大使公邸で開かれたパーティーに出席しました。同大使公邸にお邪魔させて頂くのは、2007年夏にフルブライト奨学金客員研究生として渡米する直前のレセプション以来。後に私の人生を大きく変える一年の始まりを告げてくれた場所だっただけに、当時の自分が抱いていた希望に満ちた意気込みを思い出しながら、楽しいひと時を過ごしてきました。

フルブライト研究後に帰国し、新聞記者生活に戻ったのですが、インテリジェンス、テロリズム、テロ対策、国際犯罪、汚職、マネーロンダリング…といったトピックを追い続けることに未練が残り、復職後約2年で意を決して退職しました。かつては新聞記者を天職だと思っていましたし、記者としてこれらの分野を追っても良かったのではないかと言われるかもしれません。

しかし当時も今も日本の報道を見る限り、"何か起きた時に"に報じる傾向は変わっていないようです。言い換えれば、インテリジェンス、テロリズム、テロ対策、国際犯罪、汚職、マネーロンダリングに限らず、特定の分野やトピックを執拗に追いかける専門記者による記事は、日本の報道機関にまだまだ少ないのが現実ではないでしょうか。もちろん、卓越した取材・執筆活動をされている記者はたくさんいらっしゃると思いますが、多数派ではないでしょう。

「それなら将来、自分がその専門家、第一人者になろう」というのが、新聞記者退職の動機でした。退職後はフルブライター仲間の縁を伝って欧州へ渡り、大学院で国際安全保障と紛争学の修士課程に学び、修了しました。本ブログは二度目の留学中に始め、修士課程を終えて留学先を離れたところで終わっていました。帰国後、縁あって転職することとなり、時には機微な情報を扱うことがあるため、ブログは開店休業状態にしていたのです。

しかし、ありがたいことに、冒頭に紹介した米大使公邸でのパーティーでは、ある方が「もうブログはやめたのですか」と聞いて下さったのです。自分としては2度の留学の記録程度に思っていたのですが、その方の何気ない問いかけに、学問とビジネスにまたがる私の心の間隙を鋭く突かれたような感覚に襲われました。

日本の新聞、テレビのような"発生報道主義"と揶揄されるかもしれません。ですが、最近もインテリジェンスと安全保障、国際犯罪、マネーロンダリング、情報漏洩、人材流出と産業スパイといった興味をそそられるニュースに接することが多々あります。元記者の目からは、業界に在職していた頃より、そういった分野のニュースの扱いが良くなっているように見えます。それだけ、記者・編集者側の伝えたいという意識が高くなっている同時に、現実にそうした事案が発生しており、読者にも関心を持って読まれるだろうと判断している現れと推測します。

業務に関わる話は守秘義務上、公開できませんし、するつもりもありませんが、これまでと現在の経験から見た世の中の動きに関する考察を、時には学術的アプローチも試みながら綴っていきたいと考えていますので、改めまして宜しくお願い申し上げます。