2010年9月20日月曜日

The Defense of the Realm

Cambridge UniversityのChirstopher Andrew教授によるイギリスMI5の公式史書(本文851ページ)を読了しました。以下はIRAに関する記述のメモ。
  • 1980年代、国際的テロ活動の強まりを受け、MI5はテロ対策にも重点を置くようになった。1909年の創設以来、二度の世界大戦期はドイツの、冷戦期はソ連の諜報対策が中心だった。中東のテロ組織やIRAの活動は1960年代の終わりから顕著になってきていた。英国本土におけるIRAテロ対策の主役は1883年に創設されたロンドン警視庁のSpecial Branchだった。北アイルランドではその役割をRoyal Ulster Constabularyが担い、MI5はそれぞれをサポートする立場だった。IRAによる英国本土の攻撃の最初は1938-9年にさかのぼる。北アイルランドとアイルランド共和国(南)の国境周辺においては1958年。その当時、MI5はユニオニスト政府からの要請を受けてBelfastにLiasonを置いていたものの、IRAと対峙していたのは、英国陸軍の支援を受けたRUCだった。
  • 英国本土の政府内では1960年代の終わりまで、北アイルランド情勢についてあまり議論されることはなかった。しかし、MI5は1968年に高まったカトリック系住民による公民権運動がIRAの支持基盤拡大につながるとみていた。英国政府は1969年にthe Official Committee on Northern Irelandを、Joint Intelligence CommitteeはCurrent Intelligence Group on Northern Irelandをそれぞれ設立し、対策に腰を上げた。1969年6月、JICは北アイルランドには①IRA②公民権運動派③プロテスタント過激派が主に活動しており、中でも①は共産主義者の、②はトロツキー主義信奉者の支持を受けていると分析した。実際、IRAはアイルランド共産党や共産主義者を通じて、ソ連へ武器提供を要請。ユーリ・アンドロポフ書記長は当初拒絶したが、1971年頃にゴーサインを出した。そうした背景の中、英国政府は1969年8月14日、治安維持を目的に英国軍を北アイルランドへ派兵した。
  • こうした英国側の動きに対し、IRAは例えばRUCに関する何の秘密情報も持ち合わせておらず、ダブリンで得られるような公式発表物の情報しか取得していなかった、とアイルランドの歴史学者の大家、Trinity College of DublinのEunan O'Halpin教授は指摘している。
  •  http://tcdlocalportal.tcd.ie/pls/public/staff.detail?p_unit=histories_humanities&p_name=ohalpine
  • 1974年のIntelligence Co-ordinator's Annual Reportによると、MI5の活動全体のうち、3-4.5%しか北アイルランド問題に充てていない。対転覆工作活動全体に占める割合でも、テロ対策には10%未満、北アイルランド問題には15%程度だった。それに対して、対諜報活動には全体の52%、対転覆工作活動には28%の人員や資源を割いていた。英国政府は1916年のイースター蜂起や1922年のアイルランド自由国独立時から、IRAとシン・フェインに対し注意を払っておくべきだった。そうすれば、その後の紛争と混乱を長く避けられたかもしれない。1970年、ベルファストに派遣されたMI5のSecurity Liason Officerは着任直後、「情勢は混沌としている」と記している。混沌の原因には、警察機構と軍部、官僚の相互不信が指摘される。1976年の同レポートでは、「北アイルランド問題に対し、長期的視野が欠けている」と批判している。
  • 他方、PIRAの活動も1920年代の成功体験にしがみついた時代遅れの戦術だった。それでも、1969-71年の間に、IRAボランティアの数は約50人から1200人に増えていた。これに対し、RUCのインテリジェンスは、望みがないくらいに古かった、という。
  • 1972年1月30日のデリー/ロンドン・デリーで起きたブラッディ-・マンデー事件を受け、IRAは同年2月22日に英国本土で、3月24日にはベルファストで復讐のテロ攻撃を起こした。これを受け、英国政府はNorhern Ireland Officeを立ち上げる一方、MI5とMI6で構成するIrish Joint Sectionをロンドンとベルファストに開設して対処にあたった。MI5は北アイルランドでの情報収集経験に乏しく、また、北アイルランドは最も不人気な派遣先だった事情から、IJSの中心の中心的役割はMI6が担った。
  • IRAはリビアのカダフィ大佐からも武器提供を受けていたが、1973年のクラウディア号による武器密輸は英国側に阻止され、失敗に終わっている。1970年代後半には、カダフィ大佐側との関係悪化で、資金も枯渇するようになった。それと同時に、PIRAの活動も弱体化していた。北アイルランドにおけるテロ行為による死者数は、1974-6年の平均264人から、1977-9年は102人減少した。PIRAのボランティア達が英国側に殺害、逮捕されたためと考えられる。
  • しかし、1978年の夏には大陸欧州へテロが拡大した。ドイツ国内三か所で爆破、爆破未遂事件があったのをはじめ、11月30日から12月1日にかけては、北アイルランドの16都市で、12月17-8日には、英国本土のブリストル、ロンドン、リバプールでも事件が起きた。英国本土ではMetropolitan Police Special BranchがIRAテロ対策の中心だった。英国陸軍はPIRAの活動は1980年代にはより洗練されて手ごわくなるとみていた。1979年8月27日の事件はPIRAが最も成功させたテロの一つ。スライゴ―でエリザベス女王のいとこEarl Mountbattenとその孫のほか、2人を遠隔操作の爆弾で殺害。その数時間後には英国軍の車列を爆破し、計18人の兵士を殺害した。
  • 1980年になっても、英国本土ではMPSBが、北アイルランドではRUCがPIRA対策の中心舞台だった。MI5はこの年にオペレーションのコントロールを握ることになるが、それでも、MPSBなどとの主導権争い巻き込まれまいとしていた。同年2月16日、3月1日、3月10日、翌1981年12月とPIRAはドイツ国内やブリュッセル、ロンドンでテロ攻撃を仕掛けていった。
  • PIRAは1980年10月から12月にかけて、ロンドンとベルファストに収監されていた囚人達がハンガーストライキを起こした。「自分たちは政治的な地位を求めて活動しているのであって、犯罪者ではない」というのが訴えで、次々と餓死していった。このハンガーストライキによる訴えは米国のアイルランド系住民から同情を得ることとなった。1982年、ニューヨークの裁判所で開かれたアイルランド支援団体the Irish Northern Aid Committeeのメンバーの公判では、「過去20年以上にわたり、米国からアイルランドへ100万ドル以上に値する銃器と弾薬を密輸していた」ことが明らかにされた。
  • 当時、こうした犯罪行為を取り締まる立場のFBIに対し、MI5は次のように苦言を呈してる。「FBIは我々との情報交換に消極的で、情報は常にこちらからの一方通行だ。その理由は、FBIが米国民に関する情報を他国へ提供すべきでないという法律上の壁に加え、FBI自体が情報機関というより、情報交換に馴染みのない警察機構の性格が強いためだ」
  • その一方、MI5はフランスやベルギーといった大陸欧州の情報機関、アイルランド共和国警察との協力関係を強め、共同作業を成功させていった。その過程で、1978年をもって停止していたPIRAとリビアの関係が、ハンガーストライキを機に復活していた事実や、PIRAはソ連と東欧諸国からも武器や手榴弾を調達していたというインテリジェンスが蓄積された。1984年9月29日には、米国から密輸された武器類を積んだ船をRoyal Air Forceが追跡、南の海域でアイルランド共和国海軍が拿捕した成功事例もある。
  • リビアのカダフィ大佐は、1984-7年にかけてもPIRAに武器を提供しており、特に1985-6年にかけては120トン以上の武器類が密輸されていた。それらを阻止できなかったところに、英国のcounter-terrorismの弱さがあると指摘される。
  • 1984年、IJSはMI5が中心的役割を担うことで解体された。背景には、北アイルランドでのテロ発生件数と死亡者数の低下がある。1972年には1万件以上の事件で500人以上が死亡したのに対し、1983年には年200-300件で死亡者も80人以下に減っていた。
  • 1984年10月16日、PIRAはロンドンのブライトンにあるグランドホテルで爆破テロを起こした。MI5が何年も前から危険性を訴えていた通り、保守党党大会が狙われ、党員5人が死亡、30人以上が負傷した。難を逃れた当時のサッチャー首相に、PIRA側は犯行声明を出した。"Today we were unlucky, but remember we only have to be lucky once. You will have to be lucky always."
  • 1980年代の北アイルランドにおけるテロ対策上の問題点として、RUCがPIRAテロリストの逮捕より、射殺を好んでいたとする疑念が指摘される。1988年3月6日、ジブラルタルでPIRA Active Service Unitのメンバー3人を射殺したオペレーション"FLAVIUS"は、その後、射殺が適切だったか論争を引き越した。結果的に、3人は64キロの爆弾と200発のカラシニコフ銃の弾薬を準備し、ジブラルタルでの軍事セレモニーを襲おうとしていたとして、オペレーションは成功だったという評価が定まった。
  • PIRAはその後もテロを起こすが、払う犠牲の方が大きくなってきたようである。MI5は、フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、ドイツの情報機関とPIRA対策で常に協力し、必要があれば、ポルトガル、スペイン、イタリア、オーストリア、スウェーデンの情報機関にも協力を求めてPIRA包囲網を築いた。他方、アメリカでも1989年までにはFBIとの対PIRA関係を構築。武器密輸に絡む4人の米国人逮捕に結びつけた。この4人の逮捕は、PIRAの新型遠隔操作爆弾や対空ロケット砲の開発阻止に寄与したとされる。
  • 1990年代、MI5の諜報活動の主眼はテロリストへ移った。1991年2月7日には、メジャー内閣の閣議が迫撃砲で狙われるテロが起きた。この時期、英国本土でのPIRAによるテロ活動が増加。1977-89年にはテロ攻撃は年間4日を超えなかったのに対し、1990年には19日と80年代の合計より多いテロが起き、1992年には47日に及んだ。1991年6月までには、英国本土でのテロ対策の中心的役割と主導権が、MPSBからMI5に移ることとなった。
  • "Only a combination of good intelligence, good policing and good luck prevented several more incidents on a similar case." the Whitehall Report
  • 1991年の始めからPIRAから停戦交渉の兆しはあった。その背景にいたのは、デリーのBrendan Daddyというビジネスマンで、1970年代前半にシン・フェイン党党首のRuairi O'Bradaighと知り合いだったことから、英国政府は彼を交渉の窓口として活用していた。1993年2月20日にはシン・フェイン党のMartin McGinnessが英国政府との交渉の必要性を公言。そうしたインテリジェンスは2月22日にメジャー首相に伝えられた。1993年7月14日には、MI5、MPSB、スコットランド警察の協力でRobert Fryerを逮捕。1994年6-7月には、PIRAが停戦の意向を示しているというインテリジェンスが増え、8月31日に正式な停戦が表明された。それでも、一部のASUによるテロ行為は続いた。
  • 北アイルランドにおけるMI5の死者はゼロだったのに対し、RUCの死者は300人以上、負傷者は9000人以上。英国軍の死者は763人に上った。1996年、MI5は警察の重要組織犯罪捜査をサポートするよう、the Security Service Actが修正された。
  • Tony Blair首相はインテリジェンスには関心を示さなかったが、MI5の北アイルランドン紛争に関する報告は注意深く読んでいたという。
  • 1998年1月のthe final Belfast (Good Friday) Agreementでは、①北アイルランドは住民の多数意見がある限り英国に帰属する②ユニオニストは南との権力分担と国境での協力関係を受け入れ、シン・フェイン党の政治参加も認める③共和主義者を釈放することで合意した(特に③を巡っては、未だに反体制派共和主義者からの異議の声が強い)。
  • 2007年度、MI5の組織資源の15%を北アイルランドテロ対策に割いた。同年、MI5は史上初めて北アイルランドにおけるインテリジェンス活動の主務を与えられ、ベルファストに本部を設置した(この点に関し、2010年における反体制派共和主義者によるとみられる事件多発を受け、MI5とPolice Service Nothern Ireland, PSNI間の情報共有が徹底されていないと批判されている)。2007-8年のIntelligence and Security Committeeのレポートによると、MI5は「英国本土と北アイルランドにおけるReal IRAやContinuing IRAによるテロ攻撃は今後も続く」とみているという。
  • "The further backwards you look, the further forward you can see." Winston Churchill 

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